僕は、学生と話す機会があると、必ず「留学」を勧めています。語学習得とか、就職に有利とかは、二の次で、それより大切なのは、感受性の高い時に「異文化に触れること」なんです。
僕がこうして投稿書いてるのも、2004年に中国留学を経験したからなのかもしれません。人生の転機があったとすると間違いなくこの留学でした。
当時、中国人や、その他外国人から学んだのは『もっと自由に生きていいんだ』です。
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感情を自由に表現する
そこまで仲の良くない中国人から「あなたの髪型ダサい」「服がダサい」「君の発音は悪い。もう一生このまま」「あんまり好まれないタイプだね」など言われたい放題でした。
しかし、彼ら彼女たちには悪気はなくて、思ったことを素直に意見してるだけでした。こんな言いたい放題のコミュニケーションが、世の中にあるのかと、当時、本当に驚かされました。
僕は、ここまで、他人の領域に、ここまで、踏み込む意見はできませんでした。それが、日本の最低限のマナーですよね。彼らと比べて「僕は自分の本音すら口に出せない性格なのか?自分は劣っているのか?」とショックを受けました。
先生を評価してください
忘れられないエピソードがあります。
ある短期中国語授業を受講していました。12回に及ぶ、新米先生の講義でした。最後の講義が終わったと思ったら、この新米先生は教室を出て行って、別の先生が入ってきました。
そこで、生徒たちを前にして、こんな質問を投げかけるのです「あの新米先生の授業はどうでしたか?」と。僕は、一番前の席に座っていたので「室長さん、答えてください」と名指しされたのです。
あの時は、テンパりました。「生徒が先生を、皆んなの前で評価する」ということを、僕は経験したことがないのです。あっても無記名のアンケートぐらいです。あの新米先生は、さっきまで、この教室で講義をしており、壁を挟んだすぐ隣で待機しているかもしれないですし。
僕はシドロモドロになり。「あの先生は、良かったです」という、クソみたいな回答をしました。しかし、他の留学生たちは「あの先生の授業の進め方は、ここが悪かった」など、具体的に批判するのです。
そうなんです。この大学にとっても、新米先生にとっても、批判や改善点を、生徒から指摘されることは、良い事なのです。しかし、僕の常識では「先生は敬うもの。批判などもってのほか」という先入観があり、何も発言できなかったのです。
その後「一体自分は何を考えているのだろうか?」と自問自答するようにもなりましたし、何かの外部要因が邪魔して「自分が自分の本音に辿り着けてないんじゃないか?」とも考えました。外部要因とは、今まで育った環境やら、周りの人たちの影響とか、全てです。
抑圧された衝動
心理学フロイト先生は、人間のすべての行動の背後には、必ず心理的な裏付けがあると考えました。有名な「無意識」の発見です。
僕たちは「一般的に認められていない」と思った衝動は、意識から無意識へと抑圧しています。抑圧された衝動は、無意識から意識へ浮上しようとしますが、自我が蓋をするんです。我慢しているんです。
※上記の図は、ホロウマンさんからお借りしました。
さっきの例ですと、僕の「あの新米先生、講義レベル低い」とは一瞬思ったのですが「生徒が先生を評価すべきでない。そんなの一般に認められてない」という常識があったので、意識から無意識へと抑圧されたのです。しかも、それらは、無意識に行われており自覚症状がありません。
僕は、この「自分の中の衝動」に、なるべく蓋をしないように「自分の考え」を、そのままアウトプットするように心がけています。それが、僕が海外で学んだ『自由に生きる』ことなんですね。今までの常識や習慣、同調圧力などに、支配されずに自分を出すことなのです。マインドリセットですね。
これらは、異文化交流しないことには、なかなか理解できません。日本人だけの空間では、どうしても、自分も周りも日本的考えになります。だから感受性の高い若い頃の留学には、価値があるのです。
デメリットもあります。海外生活が長いと、日本的感覚が薄れてしまい、日本社会に戻ると周りから「浮いてしまう」などです。まさしく僕は、その状態なのです(笑)
See you tomorrow.