先生から「箸の持ち方が悪いと、お嫁に行けないよ」と、小学1年の娘が注意され、母親が怒って、Twitterで発信したところ、拡散されて、賛否評論、話題になってます。
「他人に迷惑かけてないから良い」とか「親が躾けないと娘が可哀相」など。詳細はこちらからどうぞ。僕も、社会派ブロガーとして、参戦したいと思います(笑)
娘が小学校の先生から「お箸の持ち方がおかしい。お嫁にいけんよ」と言われたというので、朝から母はヒートアップ♡
お箸の持ち方が変だから結婚したくないとかいう人とそもそも結婚せんでいいし、いや、結婚する相手を決めるのは娘やし、女が選ばれる時代なんてとっくに終わってるし、はああああ??— ちゃちゃこ@正直クソババアお母さん (@shinkontosa) June 12, 2019
僕の考えはシンプルで、
「それが自分にとって不利か有利かで判断すべき」です。
道徳心や、マナーなどよりも、先ずは「損得勘定で考えるべき」と思うのです。
目次
天秤にかける
1.損すること
《箸の持ち方が悪いことで、他人からの評価が下がる。上手く掴めない》
2.得すること
《無理に正しい持ち方をしない。今のまま。自然体が自分は心地よい》
この2つを、天秤にかけて、自分の有利だと思う方を選択すべきなのです。これは経済用語でいうと「トレードオフの関係」です。どちらかを選べば、どちらかを選べないのです。
僕も、3児の父親ですから、子供を躾けますが、今まで「マナーだから」という言い方したことはありません。「そのままやと、自分が損するで!」と注意します。僕は、子供達に、自分の損得で判断して行動するように促すわけです。
「親から言われたから◯◯をする」ではなくて、「自分事」として、物事を捉えて欲しいのです。
箸の持ち方が悪いと、いかに「人生損するのか?」具体例をあげていきますね。
指壁の50代男性(他人から低評価)
先日、ある日本人の方(50歳)と食事してたのですが、箸の持ち方が悪いため、なんと左手を使って食べてました。インド人じゃないですよ、日本育ちの日本人です。背筋が凍りましたね。
右手で箸を持っているのですが、平べったいお皿でしたので、米粒を掴みにくいので、左手の指を壁にして、箸と「指壁」を使って、そこの間に、米粒を挟み込んで、掴んでました。その左手の指先は、幾分、汚かったです。
それが、自分一人で食べているのならまだしも、お客さんと一緒でした。おそらく、向かいで座っていたお客さんも、その不作法に気付いてました。
しかし、不幸なことに、当の本人は、無意識でやってますので、平気な顔していました。この人、今まで50年近く生きてきて、その間、誰か注意してやらなかったのか?と、激しく同情しました。30代の僕が、オッサンのマナーについて、いちいち口を挟む義理は無いため、スルーしました。
字が汚いことで相手に伝えれない(超不便)
僕の次女(6歳)は、鉛筆の持ち方が悪くて、何百回も注意し続けています。それが原因で、字が綺麗に書けないのです。
左側から右側に、線を描くときに、自分の指が邪魔して、うまく描けないのです。「正しい持ち方」には、やはり、そうあるべき根拠があるんです。
活字は、相手に伝わって初めて意味を成します。汚くて、相手が、読むに苦しむのは、明らかに損してます。
これらは、パソコンや、スマホが一般的になり「活字を書いて伝える機会」は減っています。しかし、その機会は、決してゼロにはなりませんし、僕は、活字だけを言っているのはでありません。絵を描くのも同じです。
僕は、海外に出て「自分に絵心がある」ことに、何度、救われたか。自慢話で申し訳ないですが、僕は、小学生の頃、絵の教室に通ってまして、アニメや、模写など、そこそこ上手く描けます。
海外の現場監督に欠かせないのが、紙とペンです。末端の作業者は、カンボジア人や、ミャンマー人で、英語など、まともに話せません。そんな人達には、ポンチ絵を描いて、伝えるのです。頭の中のイメージを、絵にしてあげます。絵が下手な人は、このビジュアルによる表現方法が出来なくなります。
娘には「持ち方を変えへんから、いつまでも字が下手なんや!公文の先生から、漢字やり直しさせらるやろ?」と、分からせる必要があるのです。
箸文化がない外国人はもっと不器用
僕は、タイ生活が7年目に突入しましたが、タイ人は、むちゃくちゃ箸の持ち方が悪いんです。日本以上に、親が子供に、箸の持ち方を指導していません。食事も、基本は、スプーンとフォークですしね。
そうなると、やはり、上手く食べ物を掴めないのです。総じて、絵を描かせても、僕の方が上手いんです。
社内の運動会で、割り箸で、卓球のピンポン球を掴んで、リレーする競技があったのですが、驚いたことに、タイ人は、皆んな、掴めないのです。読者の皆さんは出来ますよね?
人によっては、右手に割り箸1本、左手にもう1本持って、両サイドでピンポンを挟んでいました。
人間として生きている中で、食事の機会は、一生に、数万回にもなります。そこで、毎回、上手く掴めない、機会損失は、相当なものでしょう。
マナーや道徳で縛ることの限界
道徳やマナーというのは、時代と共に変わっていきます。それらを基準に、今、起こっている目の前の事象について、善悪を議論しても意味ありません。
昔は、煙草を吸う男性はカッコ良かったですが、今では、食事中に、禁煙者の隣で、プカプカ吸う人は、マナー違反ですよね。
だからこそ、自分の損得で、物事を判断すべきなのです。損得も時代とともに変わりはしますが、ここは主観によるものなので「世間一般のマナー」よりは、自分に最適化された判断が、出来るはずです。
しかも、これからはグローバル社会がもっと加速します。日本人だけで完結できない社会になります。
インド人は、右手を使ってカレーを食べますし、タイ人は、スプーンとフォークです。「だから、何でも有りなんだ」と、乱暴な言い方はしませんが、日本発のマナーや道徳だけを、盲信するのは、どこかで無理が出てきます。
そして、これからは、もっともっと個人の自由が尊重される社会になるでしょう。そうなると「法律」では、引き続き、規制されますが、「マナー」という概念だけでは、各個人を縛れなくなると思います。
全ては自分ごと、他人から言われても続きません
結局、何が言いたいかというと、
社会一般で言われる「◯◯するべき」を、自分ごととして自己消化すべきなのです。
・勉強すべき理由
・読書すべき理由
・スポーツすべき理由
これらも、まったく同じで「自分にとって利益になる」と気付かないと、いくら親や先生から、やれやれ言っても、本人には響かないのです。
マナーだから、常識だから、皆んなもやってるから、義務教育だから、とか、そんな上部だけの理由では、何も続かないんです。
当の本人に、損得勘定で、物事を考えさせるべきなんです。損してると自己認識できれば、勝手に自分で勉強し始めますよ。僕はそうでした。
だからこそ、僕は、本を買って読みますし、健康寿命を伸ばそうと、サッカーもしています。そこに「好き嫌い」という感情はありません。それらは、誰に言われたではなく「全て、自分のために」自発的に続けているのです。
See you tomorrow.